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人間らしいコンピュータと人間らしくない人間

 昨日の記事で、「WALL・Eのエンディングテーマについては自分が語るから内容は誰か頼む」とテキトウなことをぬかしていたら、YO氏こすも氏がちゃんと記事を書いていたようです、エライッ!(別に自分が頼んだからではないですよね、スイマセンw)
 とまぁ人様の感想を読んでいたら自分もちゃんと書きたくなったので書いてしまおうという訳です。といっても、自分は紹介するのがヘタクソなので、単に自分の考えたことぐらいしか書けないんですけどね。

以下ネタバレ注意


 この映画で一番印象に残っているのは、地球が浄化されるまで宇宙で暮らそうとしていた人間たちの、快適な生活に順応し退化した姿でした。今予告編を見直してみたところ、一応人間が出てくるシーンが少しだけあるのですが、宇宙船内を遠くから見下ろすシーンであって姿がしっかりと見えるというわけではなく、人が出てくるのは予想できていてもまさかこんな姿になっているとは!と多くの人は衝撃を受けたのではないでしょうか。一応デフォルメされているのでデザイン自体は可愛らしいのですが、その可愛さがかえって不気味にも思えました。

 映画『MATRIX』では、人間は一見通常の世界に生きているように見えて、実はコンピュータに支配されているという世界でした。対して『WALL・E』の世界は、人間は(一応)快適な生活を送り、それを支援・管理しているのはコンピュータという世界です。
 この2つ世界の違いは、人間がコンピュータの存在を知っているか知らないかということだけではなく、人間が人間足りうる「意思」を持っているかどうか、ということもいえるのではないでしょうか。
 『MATRIX』では、コンピュータの支配に気づき、それから脱却しようとする人間の存在がいます。しかし『WALL・E』では、自分達の退化の原因であるコンピュータの存在を認知しているにも関わらず、快適で恒常的な日常を営めていることにすっかり満足してしまいコンピュータへの依存から抜け出さずにいるのです。

 もちろん『WALL・E』のコンピュータは悪い意思をもっているというわけではなく、人間のために働いていることは『MATRIX』と違います。また、たとえコンピュータから脱却せず地球に帰れなくても、彼らの生命が保障されるならば依存から脱却する必要は無いという見方もあるかもしれません。

 しかし、人間が退化し、コンピュータの過剰な管理に置かれていることは現実として問題視すべきことです。しかも生活が保障されているといっても、本当にそれが未来永劫のものかといえばそうではありません。映画の途中で、ウォーリーとイヴが宇宙外にゴミと一緒に廃棄されそうになるシーンがあります。人間は地球を汚しきったにも関わらず、結局船内でも不必要になったゴミは外へ廃棄しているように悪い精神は治っていないようですが、多少の廃棄物や汚染は循環・浄化機能がある地球と違って宇宙船内は有限の資源しかないはずです。人間の快適な日常はそのときは恒常的であったとしても、それが永遠に続くわけにはいきません。いつかはエネルギーや資源が枯渇してしまうでしょう。また、コンピュータが常に人間の味方であるという保障もありません。映画の中でも、古い人間の命令に従って現在の人間の命令を無視するというコンピュータの姿が描かれています。また、よくある「コンピュータが意思を持って人間に反乱を起こす」という可能性も否定できません(ここまで発達したコンピュータ達なら十分想定できます、というよりウォーリーやイヴ、その他たくさんのコンピュータはあの人間以上に人間らしいものばかりでしたねw)。そして、そもそも人間達が宇宙にいるのは、「地球が浄化されるまでの一時的な避難」であったのに、その「意思」を忘れてしまい宇宙での生活を続けることは本末転倒だということです。身体だけでなく、精神も同時に人間として「退化」してしまった結果なのでしょうか。
 それでも、はじめはコンピュータに依存してばかりで本という存在さえ知らなかった艦長が、植物を目にしたことをきっかけに様々な知識を吸収してしだいに地球への興味を持ち出し、地球への帰還を止めさせようとするコンピュータに反発する「意思」を形成するに至ります。やはり人間はこうあるべきですよね。快適で恒常的な生活が人間にとってすべてでは無いのは皆さんもご理解いただけるかと思います。



 で、あえてこの映画を無理やり現代に結びつけてみましょう(娯楽映画ですからこのように結び付けようとすることは邪道なのは百も承知ですw)。
 現在コンピュータはあらゆるところに存在し、それによってわれわれ人間が恩威を受けています。技術の発展により、まさかこんなところにもコンピュータが!という例もありますが、大半のコンピュータは人間がそれを認知できるものです。つまり『WALL・E』の世界とはなんら変わりないということです。というより『WALL・E』は現代の世界の未来の姿のひとつなのでしょう。
 しかし、ならコンピュータから脱却すればいいじゃないかと簡単に解決することでもありません。現代ですら人間のコンピュータへの依存はかなりのもので、コンピュータ無しに現状の生活を維持することはできないでしょうし、コンピュータを否定することは人間の技術、文化活動の否定でもあります。エンドロールで、地球を再開発しようとする人間達をコンピュータが手伝う姿が見られます。一度コンピュータを開発してしまった人間が、それを無くすとこは不可能なのです。
 問題なのは、コンピュータに依存してしまうことではなく、依存への疑問視を忘れてしまうことなのです。
 具体的な例を挙げるとすれと、Suicaやクレジットカードに代表されるICカードの問題です。スキミングといって正規の利用以外でカードの情報を盗み出し悪利用する犯罪があります。もちろんICカードは便利なのですが、その便利さがかえって不利益な結果をもたらすことになるのです。コンピュータによってもたらされているものが「便利さ」だけだという思考停止になってしまうことが危険であり、便利さとその危険性両方を理解し解決しようとしたうえで、はじめてコンピュータの「正しい依存」となり、人間が人間であることが保たれるのです。

 コレクションを楽しんだり、孤独を悲しんだり、誰かと手をつなぎたいと願ったウォーリー。探索船からおり(一時的に)自由になったことを喜んだり、ウォーリーとのふれ合いに心動かされたり、ウォーリーや植物を守るために必死になったイヴ。彼らはどうしてこれほどコンピュータとは思えないくらい人間的であるのに対して、本物の人間が人間らしくなくなってしまったのだろうか。もちろん娯楽映画としても大変満足できるものでしたが、こんな疑問をわかせてくれた映画でもありました。" target="_blank">昨日の記事で、「WALL・Eのエンディングテーマについては自分が語るから内容は誰か頼む」とテキトウなことをぬかしていたら、YO氏こすも氏がちゃんと記事を書いていたようです、エライッ!(別に自分が頼んだからではないですよね、スイマセンw)
 とまぁ人様の感想を読んでいたら自分もちゃんと書きたくなったので書いてしまおうという訳です。といっても、自分は紹介するのがヘタクソなので、単に自分の考えたことぐらいしか書けないんですけどね。

以下ネタバレ注意


 この映画で一番印象に残っているのは、地球が浄化されるまで宇宙で暮らそうとしていた人間たちの、快適な生活に順応し退化した姿でした。今予告編を見直してみたところ、一応人間が出てくるシーンが少しだけあるのですが、宇宙船内を遠くから見下ろすシーンであって姿がしっかりと見えるというわけではなく、人が出てくるのは予想できていてもまさかこんな姿になっているとは!と多くの人は衝撃を受けたのではないでしょうか。一応デフォルメされているのでデザイン自体は可愛らしいのですが、その可愛さがかえって不気味にも思えました。

 映画『MATRIX』では、人間は一見通常の世界に生きているように見えて、実はコンピュータに支配されているという世界でした。対して『WALL・E』の世界は、人間は(一応)快適な生活を送り、それを支援・管理しているのはコンピュータという世界です。
 この2つ世界の違いは、人間がコンピュータの存在を知っているか知らないかということだけではなく、人間が人間足りうる「意思」を持っているかどうか、ということもいえるのではないでしょうか。
 『MATRIX』では、コンピュータの支配に気づき、それから脱却しようとする人間の存在がいます。しかし『WALL・E』では、自分達の退化の原因であるコンピュータの存在を認知しているにも関わらず、快適で恒常的な日常を営めていることにすっかり満足してしまいコンピュータへの依存から抜け出さずにいるのです。

 もちろん『WALL・E』のコンピュータは悪い意思をもっているというわけではなく、人間のために働いていることは『MATRIX』と違います。また、たとえコンピュータから脱却せず地球に帰れなくても、彼らの生命が保障されるならば依存から脱却する必要は無いという見方もあるかもしれません。

 しかし、人間が退化し、コンピュータの過剰な管理に置かれていることは現実として問題視すべきことです。しかも生活が保障されているといっても、本当にそれが未来永劫のものかといえばそうではありません。映画の途中で、ウォーリーとイヴが宇宙外にゴミと一緒に廃棄されそうになるシーンがあります。人間は地球を汚しきったにも関わらず、結局船内でも不必要になったゴミは外へ廃棄しているように悪い精神は治っていないようですが、多少の廃棄物や汚染は循環・浄化機能がある地球と違って宇宙船内は有限の資源しかないはずです。人間の快適な日常はそのときは恒常的であったとしても、それが永遠に続くわけにはいきません。いつかはエネルギーや資源が枯渇してしまうでしょう。また、コンピュータが常に人間の味方であるという保障もありません。映画の中でも、古い人間の命令に従って現在の人間の命令を無視するというコンピュータの姿が描かれています。また、よくある「コンピュータが意思を持って人間に反乱を起こす」という可能性も否定できません(ここまで発達したコンピュータ達なら十分想定できます、というよりウォーリーやイヴ、その他たくさんのコンピュータはあの人間以上に人間らしいものばかりでしたねw)。そして、そもそも人間達が宇宙にいるのは、「地球が浄化されるまでの一時的な避難」であったのに、その「意思」を忘れてしまい宇宙での生活を続けることは本末転倒だということです。身体だけでなく、精神も同時に人間として「退化」してしまった結果なのでしょうか。
 それでも、はじめはコンピュータに依存してばかりで本という存在さえ知らなかった艦長が、植物を目にしたことをきっかけに様々な知識を吸収してしだいに地球への興味を持ち出し、地球への帰還を止めさせようとするコンピュータに反発する「意思」を形成するに至ります。やはり人間はこうあるべきですよね。快適で恒常的な生活が人間にとってすべてでは無いのは皆さんもご理解いただけるかと思います。



 で、あえてこの映画を無理やり現代に結びつけてみましょう(娯楽映画ですからこのように結び付けようとすることは邪道なのは百も承知ですw)。
 現在コンピュータはあらゆるところに存在し、それによってわれわれ人間が恩威を受けています。技術の発展により、まさかこんなところにもコンピュータが!という例もありますが、大半のコンピュータは人間がそれを認知できるものです。つまり『WALL・E』の世界とはなんら変わりないということです。というより『WALL・E』は現代の世界の未来の姿のひとつなのでしょう。
 しかし、ならコンピュータから脱却すればいいじゃないかと簡単に解決することでもありません。現代ですら人間のコンピュータへの依存はかなりのもので、コンピュータ無しに現状の生活を維持することはできないでしょうし、コンピュータを否定することは人間の技術、文化活動の否定でもあります。エンドロールで、地球を再開発しようとする人間達をコンピュータが手伝う姿が見られます。一度コンピュータを開発してしまった人間が、それを無くすとこは不可能なのです。
 問題なのは、コンピュータに依存してしまうことではなく、依存への疑問視を忘れてしまうことなのです。
 具体的な例を挙げるとすれと、Suicaやクレジットカードに代表されるICカードの問題です。スキミングといって正規の利用以外でカードの情報を盗み出し悪利用する犯罪があります。もちろんICカードは便利なのですが、その便利さがかえって不利益な結果をもたらすことになるのです。コンピュータによってもたらされているものが「便利さ」だけだという思考停止になってしまうことが危険であり、便利さとその危険性両方を理解し解決しようとしたうえで、はじめてコンピュータの「正しい依存」となり、人間が人間であることが保たれるのです。

 コレクションを楽しんだり、孤独を悲しんだり、誰かと手をつなぎたいと願ったウォーリー。探索船からおり(一時的に)自由になったことを喜んだり、ウォーリーとのふれ合いに心動かされたり、ウォーリーや植物を守るために必死になったイヴ。彼らはどうしてこれほどコンピュータとは思えないくらい人間的であるのに対して、本物の人間が人間らしくなくなってしまったのだろうか。もちろん娯楽映画としても大変満足できるものでしたが、こんな疑問をわかせてくれた映画でもありました。

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